出版と放送とTwitter

最近 Twitter にどんな機能があり、どんな使われ方をしているかを学ぶにつれて、Twitter を「放送的なメディア」だと感じるようになりました。

2001年に私と共著者は下記の発表

において

  • 我々は「放送」を、不特定の人に対して合理的かつ同報的に情報を伝達しようとする「通信の編集形式の一つ」と定義する

と主張しました。この主張を発展させた議論は http://radiofly.to/wiki の中でも続けられているのですが、「放送」の議論を進める前にまず「出版」についてお伝えしたいと思います。

今日もまた、全視情協(全国視覚障害者情報提供施設協会)さんの会議に、スーパーバイザーとして参加してきました。以前この日記で御報告しましたが、改正著作権法の施行(2010年1月)によって「点字図書館」の可能性が広がろうとしています。
視覚障害に対応する点訳・音訳の図書だけでなく、高齢者・ディスレクシア聴覚障害など、さまざまな読書障害・情報障害に対応できる「出版のユニバーサルデザイン」として「マルチメディア DAISY」が期待されています。海外ではBOOKSHAREプロジェクトが積極的に活動をしており、例えば以下の関根さん(ユーディット)の記事で報告されています:

たとえ合成音声での読み上げを想定した「単なるテキストファイル」であっても、マルチメディアDAISYの一要素として(テキストDAISYとして)作られれば、読み手にとって「情報の構造に基づくナビゲーション」が可能になるだけでなく、図書館においても「電子的な奥付」が付与された「書籍」として扱えます。

さらに「テキスト版」「点訳版」「音訳版」などの書籍を「一つのマルチメディアDAISY書籍のサブセット」として扱えれば、同じ書籍の点訳版や音訳版の検索性を高めるメタデータとしても利用できます。点訳データには点字に対応する読み情報だけが、音訳データには音声ファイルだけが含まれており、検索は容易ではありませんが、テキスト版とリンクしていれば、読みたい本の読みたい場所を簡単に探すことができるわけです。

全国の点字図書館がとりまとめをしておられるボランティア活動の支援も、全視情協さんの検討課題となっています。私としては「点字版を作る」「音訳版を作る」という個別の作業の垣根を越えて「電子書籍の可能性」を広げていただける活動のお手伝いができればと感じています。

こうした議論を通じて私は、DAISY があくまでも「書籍の出版」のメタファを逸脱しないように注意深く活動を進めておられると感じています。それに対して、全視情協さんがもう一つ検討しておられるのは「書籍というメディアを超えた地域密着型の情報サービス」です。

私は意見を求められて「地域情報の件は、DAISY技術による「出版サービス」ではなく、むしろ「放送」だということを意識していただきたい」と発言しました。
そして、会議終了後に、いま私が「放送的なサービスの代表格」だと考える Twitter の紹介を(私の理解した範囲で)させていただきました。

正直なところ Twitter が現状の仕様のまま万人に広まるかどうかはわかりません。しかし既存の Web 上のサービスが持つ「出版的な部分」を徹底的にそぎ落とした結果生まれた「放送的なサービス」であると思います。

例えば Twitter では「ある構造を持ったひとまとまりの情報を『何月何日付け』として発信する」のは不得意です。(だから先ほど私は Twitter での発言の「まとめ記事」をブログに書いたわけです)

Twitter は「時間を超えるメディア」ではありません。時間を超えるメディアの考察は1年前に下記で行いましたが「ニコニコ動画」のような蓄積型の放送ではありません。

Twitter はあくまでも「生放送」です。しかし、

  • 不特定の人に対して合理的かつ同報的に情報を伝達しようとする「通信の編集形式の一つ」

という放送の定義を Twitter に当てはめると

  • 誰をフォローするか

という単純な操作が「自分にとって合理的な情報」を選ぶことに対応しています。逆に言えば、それ以上なんの操作も必要ない(できない)ということが「放送的」です。
そういえばミクシィで「マイミクシィ」「コミュニティ」を選ぶことで同じような感覚が得られました。私が2005年にIPA未踏ソフトウェアで採択された「ソーシャルネットワーキング型ラジオ番組のシステム開発http://ora-be.nishimotz.com の最初の着眼はまさにこの感覚でした。

「生放送的なメディア」である Twitter は、遠い過去の情報を検索することは得意ではなく、むしろ「フレッシュな情報」にこそ意味があるし「空間を超えた時間の共有」という感覚を強く持ちます。

「人を選ぶこと=情報を選ぶこと」というコンセプトは決して新しいことではありませんが、特に情報システムの世界で普遍的になりつつあると感じます。例えば分散バージョン管理システム git および github.com に関する下記の記事

はソフトウェア開発という課題において「誰もが発信者になれる時代」の情報管理術だと考えられます。

「日記と掲示板=ソーシャルネットワーク」ではなく、具体的な目的と作業のために人と人が合理的に関わって情報を共有することこそが重要です。「ミクシィ的」なコミュニケーションにこだわらず、コミュニケーションを「出版的な機能」「放送的な機能」の諸要素に還元する発想が本質的に重要です。

ダイレクトメッセージやReTweetといった独特の流儀は、やがてもっと洗練されたインタフェースに進化していくのではないかと思います(「引用の流儀」はまさに私が10年くらい前に研究していたテーマです)。マルチメディア化されたTwitterがもし実現するとしたら、それは素直に誰もが受け入れる可能性の高い「参加型テレビ」「参加型ラジオ」になるのでしょうが、そういう段階がありえるのか、あり得ないからこそ現在の「140文字のツイッター」の価値があるのか。
私もイノベーションの傍観者ではなく当事者として(しつこく)関わっていきたいという思いを新たにしています。